太平洋戦争終結から73年。戦争を知らない世代が増加する一方、高齢化で戦争体験者は減少の一途をたどる。このコーナーでは当時の様子を後世へ継承すべく、小田原市に住む体験者の証言をもとに、身近な視点から戦争の記憶をたどる。
当時5年生の石黒榮治さん(83)が通っていた新玉国民学校(現・新玉小学校)が爆撃を受け、教員ら3人が犠牲になった空襲から2日後の1945年8月15日未明。寝静まる小田原の街に警戒警報が鳴り響く。
榮治さんは足袋職人だった父の商売道具であるミシンや布団を積んだリヤカーに乗り込み、キラキラと輝く満天の星空を眺めていた。その美しさにうっとりしながら、いつしかウトウトとし始めたその時だった。
「落ちたぞ、起きろ!」。誰かの叫び声に飛び起きると、さっきまで家の灯りさえ見えなかった西の方面が真っ赤に染まっていた。太平洋戦争で国内最後の空襲と言われる小田原空襲。焼夷弾により火の海と化した壮絶な光景にも不思議と恐怖感はなく、「ただただ、ものすごいなと思った」。
青物町方面から逃げ惑う人の波に押されるように、まだ乳飲み子だった弟を抱える母や姉たちとリヤカーを押し、燃え盛る街を背に東へ。自宅から400mほど離れた山王神社にリヤカーを置くと、山王橋を渡った辺りの林へ逃げ込んだ。
「いったい大丈夫なのか」。続々と避難してくる人たちと身を寄せ合う脇を、「わっしょい、わっしょい」と大きな掛け声をかけながら兵隊たちが消火に向かう姿が見えた。「頼もしかったね。今思えばポンプ車もなくて消せるわけがないけれど」
夜が明けて煙のくすぶる街に友人と行くと、そこは辺り一面焼け野原。跡形もなく消えた時計店の敷地に残っていた金庫が、今も鮮明に記憶に残る。
終戦を告げる玉音放送を聞いたのは、それから約6時間後。涙する人の姿もあるなか、「負けたから、男はアメリカに殺されてしまうぞ」という話声も聞こえた。榮治さんは不安に怯え、「まずは手足を切られるのか。それとも、すぐに首をはねられるのだろうか」。途方に暮れながら、いつまでもウロウロと自宅の周りを歩き続けていた。
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父が始めた足袋専門店は戦後、平和の証でもある祭りの衣装専門店に業種を変えた。戦争とは何か。榮治さんは、「くだらない。尊い命を殺し合い誰が得をするんだ」と語気を強めた。
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