大正7(1918)年、渋谷寿光先生は東京高等師範学校(現筑波大学)を卒業すると、県立小田原中学校(現小田原高校)に赴任した。化学を閑院宮春仁王殿下にお教えし、徒歩部(現陸上競技部)を熱心に指導した。後に参議院議長となる河野謙三たちは毎日放課後、渋谷先生が下宿していた小田原の唐人町(現浜町)から渋谷先生を先頭に国道1号線を国府津まで往復約20Km走った。金栗四三は何度か小田原中学校を訪れ、部員たちと走り直接指導した。大正7年には全校生徒にマラソンの経験談や技術について講演した。
金栗は大正8年、世界に通用するランナーを育てるため、3年前に開催された東海道駅伝徒歩競走を参考に、学生だけの手による世の模範となる駅伝レースの開催を提唱した。渋谷先生が実務を担当し、東京から箱根まで一人で歩いて巻尺で距離を測った。箱根は小田原中学校徒歩部の部員たちと地元の人たちが手伝い、提灯をつけて夜までみんなで測った。全区間を5区間に分け、1人平均20Kmで2日間とするコースを設計した。
大正9年の第1回大会は、夜箱根の砂利道を走るので、渋谷先生は選手がコースを間違えないように、徒歩部の上級生たちを松明を持って配置。宮ノ下から芦ノ湯まで部員たちを伴走させた。「学生は社会に出て自分のことばかり考えてはいけない。駅伝で力を合わせて一つの仕事をすることを訓練する」と言い、昭和55(1980)年まで30年間箱根駅伝審判長を務めた。
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