太平洋戦争終結から74年。戦争を知らない世代が増える一方、戦争体験者は減少の一途をたどる。本コーナーでは当時の様子を後世へ継承すべく、小田原市や足柄下郡に住む体験者らの証言をもとに、身近な視点から戦争の記憶をたどる。
小田原市在住の守屋隆男さん(87)が新玉国民学校高等科に進級したのは、米軍の沖縄侵攻開始直後の1945年4月。その頃、コルネット作戦と称される湘南海岸からの本土上陸に備え、陸軍の歩兵連隊が足柄平野を取り囲むように配置された。
守屋さんら1年生は軍の命令で、新しい教科書を開くことなく姫路部隊の手伝いに動員。現在はアウトドア施設が整備される小田原市久野の丘陵地で、敵から身を隠す穴「塹壕(ざんごう)」を掘る作業に従事した。休暇は雨の日と、朝から空襲警報が鳴る日のみ。サツマイモだらけのご飯を詰めた弁当箱をぶら下げ、鬱蒼とした森の中に続くけもの道を一時間かけて現場へ通った。
主な作業は、塹壕の天井や壁を支える木材の確保。兵隊が切り込みを入れた大木にロープをかけ、数人がかりで引き倒すことだった。身体の弱い生徒は炊事担当。大きな釜で炊く赤いご飯に、「兵隊は赤飯を食べるのか?」とつまみ食いすると、それは米ではなくコーリャン(モロコシの一種)だった。
戦局は激しさを増すばかりで、連日上空を飛び交う米軍機。パイロットの表情が分かるほどの低空飛行で、その度に木の陰に身を潜めた。
「伏せろ!」。ある日、けたたましい音とともに、敵機から投下された物体に緊張が走った。長さ約3・5m、直径約50cm。爆弾かと思われたが、それは空になった燃料タンクだった。にわかに広がった安堵感。鋲を外すと縦に割れてボートのような形になり、生徒たちは材木を浮かべるダムで昼の休憩時間に遊ぶのが楽しみとなった。
老兵が息子ほどの若い将校に殴られるのも日常的な陸軍。だが、引率する先生が「親から預かっている大切な子ども。丁重に扱ってほしい」と頼み込んでくれたおかげで、生徒が厳しくあたられることはなかった。
「今日まで」。8月5日、突如軍から告げられた作業の終了。子ども心に日本の劣勢は感じていたため、不思議に思うことはなかったという。その10日後に迎えた終戦。光が漏れないように電球を覆っていた黒いシートが外され、薄暗い生活から解放されたことが喜びだった。
本コーナーでは小田原市・足柄下郡に住む戦争体験者の声を募集しています。体験した地域は問いません。情報は小田原・箱根・湯河原・真鶴編集室【電話】0465・35・3980へ。
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