高校・大学の野球人口から割り出した「プロ野球選手になれる確率」は約0・19%といわれ、社会人や独立にまで広げるとその数字は更に低くなる、まさに雲をつかむような世界。それでもNPBを志し、無名でありながら夢を追い続ける選手がいる。繁田隼内野手(26)。西湘高から波乱万丈の野球人生を今なお歩み、沖縄初のプロ球団「琉球ブルーオーシャンズ」に今春、入団する。
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キャンプインを控えた1月の平塚。倉本寿彦選手(DeNA)の自主トレに帯同する繁田さんの姿があった。体幹トレーニングや守備、バッティング…プロの技を一つも見逃すまいと夢中で白球を追う。「やっぱり野球がしたい」と紡ぐ言葉は、力強い。
小田原市酒匂に生まれ、小学3年生から野球を始めた繁田さん。中学の軟式野球部から西湘高へ進むと3年時には県ベスト16も果たした。とはいえ、激戦区神奈川の中では所詮無名の一選手。「もっと上で野球を続けたい」と、推薦でなくとも入部ができる日体大へ進学した。300人を越える部員の中で3年秋にはベンチ入りし、公式戦でタイムリーも放った。
仏時代は月収3万円パン1本でしのぐ
ドラフト指名が遠く、進路決定を迫られた大学4年次。それでもプロへの道を模索していた折、ヨーロッパという選択肢があることを知った。「好きにやればいい」。両親の声にも押され、PR動画を送り、単身海を渡った。1カ国目はフランス。お金もなく、言葉も通じない、ゼロからのスタートだった。
所属したサヴィニーライオンズでは外国人枠で登録され、日曜日にダブルヘッダーで行われる試合をこなした。月収は日本円にして3万円ほど。時には1本60円のフランスパンを3分割し、朝昼晩かじるだけの日もあったという。身体が資本のアスリートとは思えぬ生活だが、異国で野球を続けるための逞しさを養ったのはこの頃だ。
1年間のプレーを終え、短期バイトでお金を貯めてアメリカなど海外の独立リーグを渡り歩いた。「ここで芽が出ればスカウトされ、上へ行けるかもしれない」。わずかな望みに賭け、懸命にアピールを続けた。
海外、特に本場・アメリカで揉まれたことで得た自信を日本に持ち帰ると、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツの入団テストの機会を得て、合格。小柄ながら広角に打ち分ける打撃で主軸を任され、前半戦は3割後半の打率を残した。「この1年でNPBに行けなかったら辞めよう」
だが覚悟の1年も叶わず、24歳でユニフォームを脱いだ。
未練が突き動かす最後の挑戦へ
その後バレーボール・Vリーグチームの職員としてグッズの企画販売、スポンサー営業といった裏方や社会人野球チームにも属した。「運営面で携われたら」と進路変更していたのだ。そこに届いた沖縄での新球団誕生のニュース。「やっぱり未練があったのかな」、気づいたらエントリーシートを送っていた。セレクションを経て内定の電話が鳴った時「またチャレンジできるんだ」と胸が高鳴った。
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数々の挑戦の裏で大切にしてきた言葉がある。西湘高時代、成功の秘訣について柴山寿治監督(当時)が語った「継続は力なり」の一言。「あの時はよく理解できていなかったけど、自主練習を毎日続けたことが基盤となって、今があると思う」。諦めず、日々を積むこと。一貫した姿にさまざまな縁が重なって、野球を今日まで続けて来られたという。
琉球は独立リーグにも属さず、単独でNPB参入を目指す異色の球団で、ここからNPBに入るのは至難だろう。まして元プロ選手も多く在籍するチーム内で競争に勝たなければ何も始まらない。だが「年齢的にもこれが本当に最後の勝負」と語る目に迷いはない。いざ、球春待ちわびる沖縄へ。もうひとあがきしてみせる、可能性が0%でない限り――。
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