終戦から70年が経った。小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介して綴るシリーズ34回目は、青春期を東京陸軍幼年学校と予科士官学校で過ごした本多正八さん(90)。
今年8月、本多さんは現役時代に所属していた小田原ロータリークラブの例会で卓話を行った。依頼を受け、自身の戦争体験を書き起こした原稿用紙は400字詰めで17枚にものぼる。
1940(昭和15)年4月、小田原中学(現小田原高校)2年修了時に入学した、東京陸軍幼年学校での日々から、話は始まる―。
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「上下関係のきっちりした寮生活でした」。起床から就寝まで、すべてラッパの合図で動く規律正しい幼年学校の暮らし。午前中は勉学、午後からは体操や剣道などの修練に励んだ。遥拝所で皇居に向かっての拝礼と、軍人勅諭の朗読が朝いちばんの日課。午前中の勉学は、一般の中学とほとんど変わらないものだった。国語の時間、教科書で目にした北村透谷の名に「同郷の出身者という親近感と郷愁がわきました」と懐かしそうに振り返る。
43年4月、予科士官学校へ進学。ガス室での実験中にガスを吸い、くしゃみが止まらずに苦しい思いをしたり、馬術訓練で落馬したりと、厳しい生活の中にも多少の彩りはあった。
玉音放送は野営演習中の西富士で聞いた。「よく晴れた暑い日でした」。状況もわからぬまま、完全武装で実弾を携え、河口湖畔まで歩行した。野外で幕営し、8月17日に御殿場駅から座間に帰営。「海軍航空隊が”徹底抗戦”と書かれたビラを撒いていたが、陸士は”承詔必謹”、つまり終戦の詔を承ったときには素直に聞くように、と厳命されていたのでね」。いったん佐久の疎開先に戻り、空襲を受けた東京の惨状を目に刻み、緑町の生家に戻った。
終戦の声を聴き6年後に父が死去。家業の家具店を継ぎ、商売を盛り立てた。「記憶は決して褪せることはない」。丁寧にしたためられた17枚の原稿用紙を前に、唇を結んだ。
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