終戦70年を迎えた今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第36回は、足柄刺繍の第一人者・上田菊明さん。
市内で縫箔屋(ぬいはくや)を営んでいた両親。戦前は問屋から注文を受け、欧米へ輸出するガウンや着物の刺繍を施して生計を立て、9人兄弟、11人家族を養っていた。しかし、戦争が始まると、仕事にもその影が色濃く反映されるようになり、兵士の制服に付ける肩章をつくるようになっていた。実家の横には、1・5m四方の「ドブ」を改造した防空壕。機銃掃射から逃れるため、父親お手製のその防空壕に家族で逃げ込んでは、息をひそめ、轟音に恐怖した。
祖母の面倒をみるため、箱根の塔ノ沢で暮らした少年期。戦時下にあっても、塔ノ沢から新玉国民学校(現・新玉小学校)に通う生活は変わらなかった。炊事で必要な薪を集めに山に入ったある日、戦闘機の音が近づいてきた。
木々をかき分け、眼前に飛び込んできた景色は、箱根の山間を我が物顔で悠々と飛行する敵機の姿。大平台から早川に向け、優雅に空を舞う流線型のフォルム、木々の緑に映える大きな翼は少年の心を高揚させた。「機銃掃射で危険な目に遭わされていたのに、『かっこいい』とさえ思えた」と当時を思い出し、声を上ずらせた。物資もなく、苦労した戦争が終わると、両親のもとには問屋から注文が次々と入ってきた。スカーフやパジャマへの刺繍の注文は、奇しくもアメリカからのものだった。
おもむろに箪笥(たんす)から取り出した古びた手帳。角がほつれ、褐色に焼けたページ面が時の流れを物語る。表紙には「學童手帖」の文字。国民学校に通っていた頃の身体検査の結果や成績が残されているだけでなく、学年ごとの修業証明書が記載されている。第1学年から順に続く証明書だが、昭和20年の6学年の修業を記すページだけ存在しない。「それだけ大変な時だったんだよ、戦争とは」。そう言葉を絞り出すと、再び手帳に視線を落とした。
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