自動車関連部品を中心に国内外で事業を展開する企業のトップであり、かつて日本代表として第1回ラグビー・ワールドカップ(W杯)にも出場した生田久貴さんにインタビューした。
スーツに包まれたがっちりした上半身。企業経営者として多忙な毎日も、ラグビーW杯は「ほとんど観てますね。会場でも決勝戦を含め7試合を観戦予定です」。
株式会社ミクニ(東京都千代田区)は、75年前から小田原事業所(久野)を操業。小田原市ラグビー・オリパラ活性化委員会にも参加するなど小田原とのつながりは深い。4年前からは、敷地内の芝生グラウンドを小田原ラグビースクールに練習場所として提供。「ラグビーは人間力やリーダーシップを養うにはとても良いスポーツです。お父さん、お母さんに訴えたいですね」。かつて”不毛の地”ともいわれた県西地域のラグビー普及に思いを込める。
大学で日本一に
慶應義塾幼稚舎(小学校)でラグビーを始め、普通部(中学)、高校では「ずっと控え」。転機は慶大時代の上田昭夫監督との出会いだ。身長177cmの生田さんを大型スクラムハーフとして抜擢。「長いパスが投げられ、体が大きいからディフェンスもできる。上田監督の目指すラグビーに合っていたんですね」
「あれ以上苦しいことはない」と苦笑いで振り返る山中湖での”地獄の夏合宿”は、その後の厳しいビジネスの世界でも自身の礎になっている経験だ。上田監督は大きな試合の前、1枚の色紙に選手の思いを書かせることがあった。その中心に監督が記した言葉「自信と信頼」はいまでも胸に刻まれているという。
当時の慶大ラグビー部は、パフォーマンスをデータ化したり、いち早くフィットネスという概念を取り入れたり革新的チームでもあった。1986年の大学選手権で明治大と同点で両校優勝。続く日本選手権では社会人王者のトヨタ自動車を下し日本一。4年生の生田さんはチームの司令塔としてその原動力となった。
大学卒業後は三菱商事に入社。ラグビーから離れるつもりだったが日本代表選出の一報が届く。会社のサポートもあり、第1回ラグビーW杯(87年、オーストラリア・ニュージーランド共同開催)に出場した。結果は予選3試合を全敗。生田さんは2試合に出場し強豪オーストラリアとも対戦した。「負けはしたが、思っていたほど背中は遠くないと感じた」。小さな手応えを胸に、大会後ジャージを脱いだ。
引退後もラグビーへの情熱は冷めることなく、仕事で南アフリカに駐在中、現地でW杯が開催されると「仕事そっちのけで観ました」と笑う。
世界と交流
日本代表の活躍もあり盛り上がるW杯にも、「大会が終わってからが大事」という。小田原市が、代表チームの事前キャンプ誘致をきっかけにオーストラリアとの交流が進んでいる例を挙げ「ラグビーを核に地域が活性化する。スポーツによって世界と交流を図ることは今回のW杯で培われた。この大会をレガシーとして遺していければ」。眼差しはラグビーそしてまちの未来に向けられている。
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