寄稿 鎌倉殿と県西地域 第4回 頼朝の乳母、摩摩尼
源頼朝に乳母が何人いたのか、はっきりとしたことは分かっていない。出自がはっきりするものでは比企掃部丞の妻、比企尼と山内首藤俊通の妻、山内尼そして小山政光の妻である寒河尼で、他にも三善康信の伯母も乳母であったという。「四人もいてどうするのだろう」と現代人の我々は不思議に思うが、比企尼は武蔵国、山内尼は相模国、寒河尼は下野国の武家で、頼朝を支える武士団のネットワークが乳母という関係でも構築されていたようだ。
もう一人、史料に現れる乳母がいる。名を摩摩尼といい、出自は分からないものの、頼朝が挙兵した時期に相模国早川荘(現在の小田原市扇町周辺など)にいたことが分かっている。この荘園は酒匂川と早川との間にある山野からはじまり、平野部を中心に成立したと考えられている。『吾妻鏡』では治承五年(一一八一)閏二月七日には、武衛(頼朝)が生まれたとき、初めての乳付けをした乳母がこの早河(早川)荘に住んでいたとある。
更に父、義朝の乳母が平治の乱で義朝が敗戦後に没落し、京都から早川荘に下って生活していることを頼朝に語っている。平治の乱があったとき頼朝は十三歳で、父の乳母とも面識があったのだろう。彼女の話を聞きながら、頼朝が落涙をしたと記されている。
頼朝はとても感情豊かで、また乳母に配慮をしていた。自身の乳母だけでなく父の乳母についても経済的に困らないように指示を加えている。
これまでの研究で摩摩尼は、頼朝を裏切った山内首藤経俊の母の山内尼ではないかと考えられてきた。しかし『吾妻鏡』を読み直すと、やはり別人と考えるべきだろうと思う。ではどんな出自がある方なのか―。史料が限られているので分からないというのが正直なところだが、揃わないジグソーパズルのようなところが、歴史の面白みの一つともいえるだろう。
参考文献/吾妻鏡