寄稿 鎌倉殿と県西地域 第5回 源頼朝と松田亭の朝長
治承四(一一八〇)年一〇月、源頼朝は平氏を討つために鎌倉を出発。途中、曽我丘陵の六本松の峠を越えて駿河へと向かって行った。今でもこの峠の付近には頼朝に因む「将軍山」や「鎌倉山」などという地名が残っている。
この峠を越えた時、頼朝の脳裏にはしきりに兄、朝長の事が思い出された。朝長は頼朝とは三歳離れた腹違いの次兄で父、義朝と波多野義通の娘との間に生まれた子である。幼い時に育った松田郷(現在の松田を含む周辺地域)に由来して、「松田冠者(まつだのかじゃ)」とも呼ばれている。
その館である松田亭は規模が二十五間(四十五メートル)もあって多数の侍が詰めることのできた館であった。しかし松田亭はその後荒廃し、そのことが気がかりであった頼朝は中村宗平に修繕を命じ、宗平はわずか一週間で修理を完了している。
頼朝と朝長は父に従い平治の合戦(一一五九年)に参加。頼朝は十三歳の初陣であった。ところが源氏に利なく、戦いに敗れて都を落ちていく。
途中、比叡山の僧兵の落人狩りに遭い、朝長は左腿に矢を受け深手を負ってしまう。近江に入ったが頼朝も疲労と吹雪のため馬上で居眠りをし、二度も一行からはぐれ遂に脱落してしまう。
朝長の傷はさらに重くなって歩けなくなり、足手まといとなってしまうため、父に首を刎ねてもらう。その後父も尾張国で味方の裏切りにあい、最期を迎える。これが『平治物語』の源氏敗亡の場面である。
この逃避行の最後の数日は、頼朝にとって忘れることのできない濃密な時間であった。それが後々まで朝長を追慕する原動力となり、他の兄弟とは違う愛情と行動の差に表れている。
富士川で大勝した頼朝は相模の国府に凱旋し、論功行賞を行う。翌々日再び松田亭に戻り、真新しく立派に葺き替えられた屋根と建物を検分し往時を懐旧している。
参考文献/平治物語、吾妻鏡