寄稿 鎌倉殿と県西地域 最終回 承久の乱と高倉範茂処刑の地
承久の乱は承久三(一二二一)年、後鳥羽上皇が北条義時討伐を目指して挙兵した兵乱である。五月に後鳥羽上皇から義時追討の院宣が発せられると、幕府方は総勢十九万騎が東海道・東山道・北陸道に分かれて、京を目指した。幕府方の圧倒的な兵力に、朝廷方はひと月も持たずに潰走、呆気なく乱は終わった。
この結果、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は配流された。そして、京都には幕府の出先機関である六波羅探題が設置され、西国には東国御家人が地頭として配置されるなど、朝廷に対して武家の優位が確立される契機となった日本史上の重大事件であった。
また、この事件の三年後には北条義時が、四年後には北条政子が死去しているので、鎌倉幕府草創の第一世代にとって最後の事件でもあったと言える。
乱の中心人物は後鳥羽上皇その人に間違いないが、「張本公卿」として後鳥羽上皇近臣の五人が挙げられた。葉室光親・一条信能・源有雅・高倉範茂・中御門宗行である。この五人は乱の後、いわば「戦争責任者」として捉えられ、いずれも鎌倉送りとなる途上で処刑されている。すなわち、葉室光親は甲斐国加古坂(篭坂峠)、一条信能は美濃国遠山庄岩村、源有雅は甲斐国稲積庄小瀬、中御門宗行は駿河国藍沢原、そして高倉範茂(藤原範茂)は相模国足柄山麓(南足柄市怒田)で処刑されている。京都でもなく鎌倉でもない地で五人とも命を絶ったのは、おそらく執権の北条義時の指令によるものではなかろうか。
このうち範茂の高倉家は藤原南家に属し父の範季を祖とする。範季は後鳥羽上皇の養育係を務め、娘は後鳥羽に嫁いで順徳を産んでいるなど後鳥羽上皇によって家格を上昇させてきた家柄である。範茂は武官として乱に加わった。宇治川の戦いで敗走、捉えられて北条朝時(義時の次男)預かりとなった。鎌倉に護送される途中、自ら入水を希望した。
足柄山麓の清川(洞川か貝沢川)を堰き止めてつくり、着物のたもとやふところに石を入れて川へ沈んだ。これは当時「(斬首によって)五体不具となると極楽に行けない」と信じられていたためだと伝えられている。
南足柄市怒田の「範茂公園」には範茂の墓と伝わる宝篋印塔がある。
参考文献/川上健太『高倉範茂 年譜』就実大学史学論集(33)、『新編相模國風土記稿』第一集