寄稿 鎌倉殿と県西地域 第3回 藝は身を助くる(弓の名人 河村三郎義秀)
一度は死にかけたが身につけた弓の妙技により、命を救われて名誉を回復した武将がいた。それは河村郷(山北町)を領していた、河村三郎義秀である。
義秀の従兄、波多野義常は頼朝挙兵の際、強い呼びかけにも応じず悪口をついて頼朝を侮った。捲土重来、関東一円の豪族を糾合した頼朝は、平家を駿河で迎え撃つ前に義常に兵を差し向けたが、これを聞いた義常は討手の到着する前に松田郷で自害して果てる。
石橋山の合戦で平家方についていた河村義秀も河村郷を取り上げられ、死罪を言い渡された。その窮地を救ったのが、頼朝の老臣、大庭景義(大庭景時の兄)である。彼は義秀の命を秘かに助けた上に、鎌倉の館に匿ってやった。
建久三(一一九〇)年八月、鶴岡八幡宮で流鏑馬が催されることになったが、射手が足りなくなった。これをチャンスととらえた景義は、義秀が一人逼塞しているのを哀れと思い、射手に推挙する。死んだと思っていた義秀が生きていたことを知った頼朝は怒りが収まらなかったが、外したら死罪にすることを条件に、義秀の射藝を試すこととする。
義秀は最初十三束(一メートル)の矢に八寸(二十四センチメートル)の鏑を用いた。その後三種類の騎射で放った矢も、悉く的に適中させた。その場に居合わせた人々は感心したのは勿論、頼朝は怒りを解いて罪を赦免し、旧領の河村郷も安堵することとなった。これが、山北町宮地にある室生神社の八百年間連綿と続いている流鏑馬の起源である。
これは義秀が家伝の藤原秀郷流の射技を日頃から怠ることなく鍛錬していた賜物で、まさに「藝は身を助くる」を実地に示した手本である。因みに波多野義常の息子、有常も優れた弓の名手で御家人に取り立てられ、松田郷を安堵されている。
参考文献/吾妻鏡・河村氏一族の歴史
■室生神社/(山北町山北1200)