寄稿 鎌倉殿と県西地域 第6回 義朝・頼朝に仕えた中村一族
中村一族は宗平の父、常宗の代に中村郷を支配していた豪族を取り込んだと言われている。宗平の館は何処にあったかは不明であるが、常宗進出時の館は現在の「殿ノ窪」と呼ばれるところと推測されている。
その後宗平は荘司となり勢力も拡大、頼朝が宗平の館に逗留した記録もある。その館は現在、荘司屋敷と呼ばれる場所にあったのではないかと推測されている。中村一族は中村党とも呼ばれ、中村宗平の中村郷(橘も含まれ今の中井町より広い)を中心に、次男の土肥実平、三男の土屋宗遠、四男の二宮友平、五男の境頼平が支配するエリア(宗平の娘が嫁いだ岡崎四郎義實も含まれる)を含め、頼朝旗挙げ当時県西では最大の勢力を誇っていた。
義朝の時代、宗平は天養元(1144)年十月、義朝の部下と国衙の在庁官人、三浦一族と連合して千余騎の軍勢で鎌倉党が支配する大庭御厨に乱入するという事件を起こした。頼朝が旗挙げをした石橋山の合戦では、この時の対立構造に伊東祐親が加わった形で戦が行われたが、三浦一族の到着が間に合わず、頼朝は大敗。『鎌倉殿の13人』ではあまり描かれなかったが、真鶴海岸から千葉に逃れ関東を統一、平家を壇ノ浦の戦いで滅亡させるまで土肥実平は目覚ましい働きをした。
特に戦の戦略に関して、実平に対する頼朝の信頼は絶大なものであった。また質実剛健で質素な生活態度は頼朝から御家人の手本とされた。
本家の中村氏は嫡男重平が早死にした為、重平の長男景平と次男の盛平が石橋山の合戦に参加したが、中村一族のリーダーは土肥実平に移っていた様だ。
平家滅亡後、土肥氏は実平の後、遠平、さらに維平が継いだが鎌倉での権力闘争により健保元(1213)年、和田義盛の乱が起きた。維平は和田方に加わって敗北し、処刑された。存命であった遠平はこの戦に無関係を貫き、引き続き土肥の地と安芸国の所領を領有した。しかし中村一族のリーダー格であり、当時小早川を名乗っていた遠平は中村氏、土屋氏等を残し土肥一族を率いて安芸に下向した。関ヶ原の戦いで西軍から東軍への寝返りで有名な小早川秀秋は、土肥の系図の最後に登場する。
参考文献/『吾妻鏡』、『源平闘争録』、竹見龍雄著『中村郷(橘・中井の歴史)』