寄稿 鎌倉殿と県西地域 第7回 曽我兄弟の養父曽我祐信
曽我祐信は運命に翻弄された男であった。治承四(一一八〇)年、石橋山の戦いで祐信は平家方の大将大庭景親につき、谷を一つ隔てた陣から源頼朝の総攻撃に加わり、頼朝を敗走させている。敗れた頼朝は箱根山中を彷徨い、捲土重来を期して安房へと逃れて行った。
上陸後、天が味方をしたのか源氏に縁故のある武士たちがこぞって頼朝の旗下に馳せ参じて、軍勢は雪だるま式に膨れ上がり三万騎に達した。頼朝は鎌倉に入った後、駿河国に向かって出発。途中国府六所宮に立寄って箱根神社に必勝祈願と寄進の下文を書く。大庭景親は一千騎を率いて平家の陣に加わろうとしたが、数万の精兵を率いた頼朝が足柄を越えたため先に進めなくなり、河村山に逃亡する。
この時曽我祐信は何をしていたか。関東一円の武士は、頼朝の許に結集して源氏の旗一色に一変した。此の間僅か二カ月に満たない。祐信の運命は逆転して、頼朝の大軍が曽我山を越え曽我荘を通過した時、彼は肝を冷やし、身を縮めてどこかに逼塞していたに違いない。天下の趨勢を悟った祐信は投降し赦免を乞う。この願いは一カ月後に聞き届けられる。ただ一緒に赦免を願った荻野俊重は、以前頼朝に仕えたが石橋山で大庭景親につき戦ったということで、殺されている。
祐信が助かった理由は弓の名手として知られていたためである。頼朝は一度反旗を翻した者でも弓馬の道に秀でた者は寛大に許しているが、裏切り者には容赦がない。祐信はその後、頼家の御弓始めを勤め、数々の弓の儀式に射手として選ばれている。特に建久四(一一九三)年、五月の富士の巻狩りでは、山神・矢口祭の重要な儀式の執行役の一人として抜擢されている。祐信生涯の晴れ舞台であった。
しかしここで大事件が勃発する。継子である曽我兄弟が実父を殺した工藤祐経を殺害し仇討本懐を成し遂げたのである。この事件の発生によって最初祐信は疑われ、自身は恐懼して魂を消すばかりの心持であった。色々調べたが事件とは関わりがなくお咎めなしということになった。
祐信は兄弟を実子と変わることなく育てていたが、曽我荘は狭く兄弟に所領を分け与えることができなかった。その人柄は実直で、死後祐信の善政を慕った領民が宝篋印塔を造立し、寄進している。
参考文献/吾妻鏡・曾我物語