渋谷寿光先生は近代オリンピックを創始したクーベルタンの「世界の若者が友情と理解を深め、平和に寄与しよう」という精神に共感していた。大正14(1925)年に日本陸上競技連盟が発足すると初代名誉主事、昭和6(1931)年から常務理事に選ばれ、昭和7年のロサンゼルス五輪は日本代表選手団本部役員、昭和11年のベルリン五輪は陸上競技総監督を務めた。その日記を紹介しよう。
――選手が元気のないのが多い。活動写真でも見につれて行くか。/練習益々本調子。村社の足も大したことない。/槍や円盤は子供が走って持ちかえる。神宮競技場で人夫がノソノソ走るよりよい。/練習場は赤土のトラック、ローンのフィールドでオリンピックスタジオンと同じにできている。/嘉納先生が朝早く選手村にお出でになってお話があった。/マラソンは自動車をつけて練習している。/いよいよ試練の時が来た。朝食後玄関に選手一同を集めて注意や激励をやった。/開会式の入場は日本のつたなさにあきれる。/マラソンに優勝せる日。ベルリンに来て初めての暑さだった。孫には有利だった。始めから終わりまで自分のペースで走ったようだ。夜は葡萄酒で乾杯した。/1940年まで毎年外国選手を招聘して競技会をやれば皆に日本のよいのがわかるであろう。/閉会式はロサンゼルスより見劣りする。計画もやり方も感心できぬ。――
渋谷先生は昭和15(1940)年に開催予定だった東京五輪をしっかりと見据えていた。
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