150年前、三枚橋で白兵戦も
150年前に幕末の箱根で起こった「戊辰箱根戦争」をテーマに、箱根町郷土資料館が企画展を開いている。今では観光渋滞で車が連なる山崎や湯本三枚橋などが戦場となり、箱根で40人ほどの死者・行方不明者が出た事はあまり知られていない。明治150年の節目を機に、同館がスポットをあてた。
1868年(慶応4年)、江戸城開城後に旧幕府軍から抜け出した抗戦派の「遊撃隊」は房総半島で勢力を増やしていた。4月には100人以上が館山から海路で真鶴に上陸、その後伊豆や御殿場方面などをまわり、沼津から江戸へと進軍を図った。
小田原藩は新政府軍に従っており、遊撃隊が領内を通らないように説得したものの失敗。箱根関所で遊撃隊との銃撃戦が勃発した。ところが翌朝、突如小田原藩は和睦を提案し、遊撃隊は小田原城下入りを果たす。小田原城内が佐幕(幕府存続)に転じたのだった。
変わる藩論
しかし、それを知った新政府側は小田原攻めの構えを見せた。江戸から駆け付けた家老も佐幕の無謀さを説いた結果、わずか数日で小田原藩は新政府側に戻った。双方は再び戦火を交える事になり、遊撃隊は山崎の高台(旧湯本中学校近く)に砲台を築き、小田原藩は長興山や石垣山方面から砲撃。その後は三枚橋で白兵戦となり、遊撃隊は湯本の町に放火しながら箱根宿〜十国峠〜熱海へと敗走した。
逃げ遅れた隊士は箱根の各地で討ち取られた。宮ノ下の旅館(旧大和屋※現在は廃業)には隊士が逃げ込んだという米びつなどが残された。山崎は古戦場として絵葉書などの題材になった。隊士の位牌が残り、供養を続ける常泉寺(宮ノ下)では今でも子孫が尋ねる事もあるという。
同館の企画展は11月25日まで。
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