NHK大河ドラマ「青天を衝け」主人公 渋沢栄一が遺したもの 連載寄稿 第3回「ビバ渋沢栄一!」 エッセイスト・加藤正孝(鶴巻)
前回の話〜渋沢栄一にとって論語との出会いは大きな意味を持っていた
▼論語で誰でも気づくのは、頻出している”仁”だ。仁(・)は、人を愛す、人を大切にするという意味(論語、顔淵(がんえん)篇)で寛大・正直・謙虚・勇気の徳に通じる(例えば、人を愛するには勇気や寛大さが必要なように)
▼渋沢も「仁(・)は論語全体の血液であり孔子の教訓から仁(・)を取り去ったら胡椒から辛味が抜けた事と同じで孔子は、この仁(・)の為に一生を捧げたともいえる」(『論語講義』)
▼彼の場合、企業などの営利事業と福祉、医療等非営利事業が同時並行で関与している事に驚かされる。役人を退官した翌年(明治7年)、生活困窮者や孤児を保護する東京の養育院の経営に関わり亡くなる迄の約60年も院長を務めている
▼救護法(日本で初めて公的扶助を定めた)が、財政難等で延期されていたが栄一たちの努力で5年後(S7年)施行となった
▼関東大震災(83歳)では、自分の事務所は全焼したが組織(善後会)を作って先頭になって支援・復興活動。外国の難民、災害にも義捐活動
▼教育面では日本初の知的障害者の施設、滝乃川学園の理事長に。これ又日本初の女子の大学=日本女子大の設立発起人、晩年は校長に。経済人の育成の必要で官立の一橋大学の創設へ向け奮闘
▼貧困民への医療提得を目的とした済生会への多額な寄付、盲人福祉協会の会長(89歳)、癩(らい)予防協会会頭(91歳)等生涯(・・)現役(・・)で活躍
▼社会事業家として彼が関わった偉業の一部を紹介したが、常に社会事業には情愛(・・)が必要といっていた彼を支えたものは、孔子のいう「仁を己れの任務」(前掲、泰伯篇)として仁(・)すなわち限りない人間愛の実現への強い使命感ではなかったか。渋沢は、よく色紙に”仁者無敵”と揮毫していたという。<次回へ続く>
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