常若遊人(とこわかゆうじん)〈冬〉 源家最後の将軍 エッセイスト・加藤正孝(鶴巻)
叡慮ハ是非ヲ越エタモノデス(太宰治「右大臣実朝」)
K臨済宗の開祖栄西が中国(宋)から持ち帰った茶を実朝に献上していて実朝は二日酔いが治ったと悦んでいます(笑)。
Y当時としては珍しいから...所で実朝像も昔は権力なき将軍とか歌に興じる文弱な将軍...
Kええ、鎌倉時代の文書、吾妻鏡や愚管抄、彼の歌の、読み直しで従来のイメージで幕府のNo.2の北条義時や母政子、重臣達の影におかれた、というのではなく例えば将軍実朝は、積極的に親政を推し進め、和歌などを通して京の後鳥羽上皇と信頼関係を築き朝幕協調を実現した、との評価もある。
Y確かに。仏事や箱根、伊豆の神社(二所詣)で国土安穏・五穀豊穣を祈り、人々の訴えを裁断し、周囲を斥けて五ケ月程の巨船建造や自己の官位昇進を朝廷に願って成功している。
K実朝の衝撃的な死で100余名の御家人が出家している。つまり御家人の支持もあった。
Y徳政(善政)も行っていますね。中国(唐)の帝王学の書『貞観政要(じょうがんせいよう)』を読んで政(まつりごと)の為(な)すべき事を考えていた。大山阿夫利神社近くの大山寺(おおやまでら)※にもこんな意味の歌を寄せています。
ありがたい雨でも度が すぎると民を困らせるのでこれ以上雨を降らせないでください。
この一首に民を心配している彼の姿がわかる。他に彼が罪人を許した話や彼が帰依した鎌倉の寿福寺の行勇(ぎょうゆう)※が何度も、人々の悲痛な訴えがあると実朝にとりなしを依頼し、実朝はその都度訴えを聴き入れています。
K行勇に"国の政は偏りなくあるべきもの"と拒否もしている。鎌倉中期の僧・無住(むじゅう)が彼の記した仏教説話『沙石(させき)集』で"人々の願う所"を実践する実朝を"賢王"とも称賛する。
Y実朝には、為政者の、歌人の、信仰の人の三つの面がありますが今迄、信仰の面からのアプローチが少ないように思います。(終わり)
※大山寺〜雨乞い、照乞いなど水に関する神、龍玉を祀っている。
※行勇〜市内東田原の禅寺金剛寺はこの行勇が開山、実朝は栄西、その弟子行勇に帰依、特に行勇には将軍就任〜死ぬまで16年間師事し、多くの仏事を行っている。前述したように実朝に首級はここに葬られ、因みに実朝の法号は金剛寺殿だ。
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