OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第8回 対馬編【2】文・写真 藤野浩章
南北に細長い対馬の、ちょうど真ん中あたりの日本海側。浅芽(あそう)湾と呼ばれる風光明媚な入り江に突如としてロシアの軍艦が出現したのは1861年3月のことだった。
その名は「ポサドニク号」。この8年前に浦賀へやって来た米艦隊と違い、ビリリョフ中尉が率いる同船はたった1隻で来訪したのだった。
しかし来訪というのはだいぶ穏やかな表現で、実のところは強引な侵攻とも言えるものだった。ロシアが"不凍港"を求めて南下政策をとるのは有史以来のお家芸ではあるが、ちょうどこの時はアジアに広大な植民地を持つイギリスが触手を伸ばしつつあった。もしイギリスが先に手を出して対馬海峡を押さえてしまえば、不凍港どころか日本の北側を航行することさえできなくなってしまう。そんな焦りが、強引な手段として現れたとも言える。
すでに日露和親条約が結ばれていたため、当初は船の修理のための停泊としていたが、真の目的はもちろん違う。ポサドニク号は浅芽湾にしばらく居座り、何と芋崎(いもさき)という小さな半島に勝手に上陸し、兵舎や井戸などの建設を始めてしまう。
そして挙げ句の果てに、島の反対側へ通じる運河、大船越(おおふなこし)をボートで突破しようとし、警備兵を射殺して地元の郷士(ごうし)を拉致する事件まで発生。当時は外国排除の"攘夷(じょうい)論"が吹き荒れていたこともあり、対馬藩内では一触即発の事態になった。そこで藩主・宋義和(よしより)からの急報を受けて幕府から派遣されたのが、外国奉行・小栗忠順(ただまさ)だった。
4月半ば、小栗一行は咸臨(かんりん)丸で品川を出発。当時35歳、事実上の"外交デビュー"の日々が始まった。
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