ツール・ド・フランス出場の夢へ 疾走するハタチ 自転車レーサー木下 智裕さん
自転車ロードレースの最高峰「ツール・ド・フランス」。総走行距離約3500キロを3週間かけて競う世界最大のレースに出場することを夢見る新成人がいる。
市内本町出身の木下智裕さん。18歳で単身フランスに渡り、世界を相手に勝負している。渡仏後は、アマチュア2部のチームからスタート。実力が全ての厳しい環境に身を置きながら、ここで4勝し、昨年1部に昇格した。「日本人で一番早いペースで1部に上がった」と確かな手ごたえを感じている。
「プロの壁が見えてきた」という今、次の目標はもちろんその壁を乗り越えることだ。ツールの大舞台にまた一歩近づく。「不可能じゃない」。若きレーサーはそう断言する。
自転車飛ばした少年時代
小さい頃は特別足が速いというわけではなかった。運動会の徒競走も”普通だった”という。ただ、とにかく自転車には乗っていた。釣りが好きで、観音崎や三浦市内の釣り場まで「ぶっ飛ばして」出かけるほどだった。
転機は中学2年の時。テレビのCS放送で、ツール・ド・フランスを見た。「ひまわり畑の壮大な景色を走ったり、標高が高いアルプスにも登ったりと、絵に描いたような風景でした」。この時初めて自転車レースがあることを知った。それから間もなくして、母親が競技用の自転車を知人から譲り受けたのを機にのめりこんだ。2ヵ月後に挑んだ山梨の市民レースで、いきなり2位でゴール。「これはいける」。この時早くも確信した。
高1の新人戦で県3位。翌年には優勝。さらに3年になると、JOCジュニアオリンピックカップで優勝した。この年、ジュニアネイションズカップにも出場し、ドイツ、カナダ、ロシアなど世界を舞台に戦った。「スピードが全然違う」とレベルの高さを痛感したが、悲観はしなかった。高2の時から決めていたフランス行き。迷いのない性格が、早くから自らの将来を見定めていた。
全てを賭けてフランスへ
フランスではレースが2月から始まるため、高校卒業を前に日本を離れた。
出国前の成田空港。見送りに来た母親に伝えたことは今も覚えている。「やりたいことは自分で決める。そのためには自分で稼ぐ」。全てを賭けている覚悟を見せたかったと振り返る。
その一方で、時速50キロ以上で駆け抜けるレースは怪我とも隣り合わせだ。現地では、ラスト20キロで転倒し、左ひざを裂傷。出血しながらも立ち上がって走り続け、1秒差で逃げ切ったレースがあった。それが、一昨年にアマチュア2部で4勝目を果たした時だ。救急車で病院に運ばれ手術し、その後帰国。練習ができない空白の4ヵ月を味わった。
「リスクを負わなければできないこともある」。エベレスト単独・無酸素登頂に挑む登山家、栗城史多(のぶかず)さんの著書を読んで、そう感じた。心配する両親に一言。「そんな簡単に死なないから」。
「人ができないことをやる」
現地での生活は、練習しながら週2〜3回レースに出るという繰り返し。練習の計画を立て、その通りにこなしていくことが、モチベーションにつながるという。1ヵ月に3000キロ走ると設定すると、1日の走行距離が決まる。「今日できたから明日も頑張ろうと思える。その積み重ねが大きい。スポーツに限らず、どんなことにも共通していると思います」。同世代にも伝えたいことだ。
現在は帰国中で、日本代表の合宿に参加するなど忙しい日々を送るが、シーズン前には再びフランスに戻る予定だ。まずは結果を出して、2年でプロに上がることを目指す。プロになれば、さらにレベルの高いレースを走ることができる。「プロ1年目でツール出場も夢じゃない。その先はステージ優勝。人ができないことをやりたいんです」。自分を信じるまっすぐな眼差しが見据えるのは、トップで切るゴールテープだ。
ツール・ド・フランス…毎年7月、フランスと周辺国を舞台に開催される世界最大の自転車レース。9人編成の20〜22チームが参加し、21ステージ・約3500キロを3週間かけて争う。2009年、茅ヶ崎市出身の別府史之さんが日本人として初めて完走した。
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三浦でキルト展11月15日 |
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